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ヨミモノ(第25話:人間万事塞翁が馬)

 

 

 

 

「これからはいついかなる時でも、心穏やかに過ごしていこうと思うよ」

 

 

数日ぶりに自宅まで様子を見に来たミル子ちゃんを出迎えたのは、自室で座禅を組みながら

瞑想するクレアミルちゃんでした。

室内には木々のさざめく音や、鳥の鳴き声が溢れています。近くに置いてあるノートPCから

動画音声を流しているようでした。

 

 

「……今度は何の番組に影響されたの?」

「気がついたんだよ。心穏やかに過ごすことが人生の幸福であると」

「いや、だから……あっ! さては仕事が終わらないから現実逃避してるわね!?」

 

 

ミル子ちゃんの指摘を虚ろな目で黙殺したクレアミルちゃんは、別の話題を蕩々と語り始めました。

 

 

「『人間万事塞翁が馬』という故事成語に感銘を受けたんだよ」

「塞翁が馬? 人生、何が幸せに転じるかわからない、みたいな意味だったかしら?」

「概ね合ってるよ。塞翁は幸福だけじゃなくて、不幸の訪れも覚悟してたけどね」

 

 

元々の故事では、馬に逃げられた塞翁が「この不幸が、幸福に転じるかも知れない」と言って、

後日その言葉の通り、逃げた馬が名馬を連れて帰ってきました。

そしてその出来事が巡り巡って不幸を引き寄せ、さらにその不幸によって幸福を享受したりと、

あざなえる縄のような禍福を、すべて穏やかな心で受け入れたというのが大筋のエピソードです。

 

 

「良いことがあったときにも喜ぶばかりじゃなくて、それが悪い結果を引き寄せるかも知れないと

覚悟しておく。逆に悪いことが起こったときには悲しむばかりじゃなくて、それがもしかしたら

良い結果を引き寄せるかも知れないのだから悲嘆しすぎない。そういう教訓だよ」

「ふぅん……プラス思考なのかマイナス思考なのか、よくわからないわね」

「基本的にその辺りの時代の人って、達観してる人がイケてるっていう価値観だからね。

小さな幸福を謙虚に享受して、あとは植物のように穏やかな心で生きるのが美徳だったんじゃない?」

「刺激と情報に溢れた現代では、なかなか実践が難しそうな思想ね」

 

  

座禅を組んだままのクレアミルちゃんは、ミル子ちゃんの言葉を受けて鷹揚に頷きました。

 

 

「塞翁は結構漠然と『良いことあるかも』くらいに運命レベルの視点でどっしり構えてるんだけど、

現代風に考えるなら『この出来事は考え方によっては悪い側面ばかりではない』ってところかな」

「ああ、それなら自己啓発本とかでもありふれた考え方の転換ね」

「すぐに結果を求めるせせこましさが、今の時代には合ってるのかもね」

 

  

どこか達観したような眼差しで窓の外を見つめるクレアミルちゃんに、ミル子ちゃんはそっと近づいて

肩を叩きました。

 

 

「ところでクレアミルちゃん……こないだ納期が早まった例の案件はどうなったの?」

「……最近思うんだよ。現代の人たちは急ぎすぎだと。今こそ我々は塞翁を見習って、

長い目で物事を捉え、ゆったりと構えるべきなのだと。古き良き時代へと回帰すべきなのだと」

「いいからオーダー通りにやって」

「…………限りある生を急ぎすぎて、大切なことを見落としてしまっ……」

「やれ」

「はい!」

 

 

毎日のように様々な形で訪れる苦労や僥倖が、後にどのような結果をもたらすのか……

それを知るためにも、まずは目の前の仕事へと取りかかるクレアミルちゃんなのでした。

 

 

 

 

 

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